プロフィールを書いていたら

大分に住み始めたころのことを
なつかしく思い出しました

大分へは、3年のアメリカ留学が終わって
1994年9月に直接来ました

留学中に、ボスが九大の医局から
大分医科大(現 大分大学医学部)に教授として赴任されていたからです
白い巨塔みたいですね…

大分には、親類縁者誰もいません
もちろん大分の知人も友人もゼロからのスタートでした

ゼロといえば、お金もゼロ
…どころか、帰国費用も足りなくて、妹から借りたくらいでした

というのも、医師免許は国家資格
つまり、アメリカでは医者ではないということ
雇用形態も、大学の「研究員」なのです。

なので、年間2万ドル(約210万円)の収入。
治安のよいところは家賃も高く、1か月8万円
小学校は公立でしたが
幼稚園は公共ではなかったので毎週支払う費用もお高め…
一家四人の暮らしは、なかなか大変でした。

3年後には、日本で売却したマンション代も底をつき、
帰国費用を一部借り、引っ越し代は新しい職場から出してもらい

マイナスから、新しい大分での新生活は始まったのです!!

移動手段は、電車と1台の自転車
TVはもちろん無く、
備え付けの電灯以外は買えず、2か所は電灯のないまま暮らしました

しばらく自転車も1台しか買えなかったので、
大道の陸橋(今は撤去されましたが)の坂道を
子供を乗せたママチャリで
突風のごとく上り下りしてたなあ…(遠い目…🥺

大分県精神保健福祉センター(現大分県こころとからだの相談支援センター)
で音楽療法をすることになり

初めてご挨拶でうかがう当日
最寄りのバス停の「明磧」がどうしても読めず

乗車するバス停に来たバスを片っ端から止めて
「めいせき、かミョウセキ、行きますか

👨‍✈️❓❓
「えーっと、明るいという漢字と、石編に責任の責」
と説明して、ようやく目的地までたどり着いたことなど
思い出します。
(バス停には、必ず路線図があるので見ればわかるはず)
と思い込んでいたんです

ちなみに、「あけがわら」と読みます

わたしは両親が転勤族だったので、
これまで3年以上長く
同じ場所に住んだことがなかったんです

大分にはもう
四半世紀以上お世話になっているんですねえ~

仲良しの友人、知人、お世話くださっている方々も大勢♡
本当に多くの方々に感謝の気持ちでいっぱいです 😂

ありがとうございます❤
そして、
これからもよろしくおねがいします❤